私が漢方治療を始めたきっかけ


 日常診療において、不眠症の治療というと、睡眠薬を用いることが圧倒的に多く、漢方薬のみで治療されている先生は少ないと思われる。しかし、なかには漢方薬での治療を希望される患者さんもおられ、ケースに応じて、睡眠薬と併用したり、漢方単独で治療しているが、漢方単独で治療することは、そう多くない。

 そんな私だが、意外にも漢方を始めたきっかけとなったのが、この不眠症なのである。医師になり4年目で、呼吸器内科医であった私は、毎日のように肺癌患者の治療に明け暮れていた。ほとんどが化学療法や放射線治療を受けていた進行例が対象であった。そんな中、肺癌の末期で、不眠を訴える60歳代の男性患者と出会った。当時私は漢方を信じておらず、現代医学一辺倒の治療に邁進していた。当然のように、睡眠薬を処方し、これまでの患者と同じようにすぐに眠れるだろうと思っていた。数日様子を見たが効果がない。そこで睡眠薬を追加、眠れるのを待った。ところが、今回も効果がなかった。そんなやりとりを繰り返し、気がつくと、眠剤と向精神薬を合わせて6種類になっていた。しかし患者は眠ることができず、病室に回診に行く私の足取りも重いものになっていった。 

 さすがにこれ以上向精神薬を増やすわけにはいかず、追い詰められた私は、ツムラの漢方の手帳を手にしていた。漢方に興味のなかった私に、ことある毎に当時の上司が見せながら教えてくれた手帳だった。そして、当時漢方の素人だった私が選んだのが、ツムラ加味帰脾湯だった。「虚弱体質で血色の悪い人の貧血、不眠症、精神不安、神経症」とあり、それが肺癌末期患者の身体的特徴と精神状態にマッチしていると思われたからだ。正直に言うと、現代医学ではもう手詰まりだったので、ダメもとで処方した一手だった。つまり効くとは思っていなかった。

 翌日、日に日に重くなった足取りと気持ちでその患者の病室に入った私が見たものは、その後の私の医師人生を劇的に変えるものだった。昨日まで生気がなく、無表情で抑うつ的だった患者が、ニコニコとうれしそうに私に感謝の言葉を述べられたのだ。この時の衝撃と医師としての喜びは、今も忘れない。

 その後、漢方医学を現代医学よりも劣るものと見ていたことを深く反省し、無知であった自分を恥じ、漢方医学を志す気持ちが芽生えたのであった。

 加味帰脾湯は、心脾両虚に用い、イメージとしては身も心も疲れ切った人が対象とされるので、このケースはまさにこれに該当する症例だったと思われる。加味帰脾湯を使うケースは今でもそう多くはなく、当時の選択は、まさに奇跡の一手だったと思われる。

 不眠症の漢方治療は、理気剤、補気剤、柴胡剤、瀉心湯類、駆瘀血剤、補血剤などの中から証に応じて選択するが、処方が多岐に渡っているので、正確な証の把握が必要とされる。様々な疾患に対し漢方治療をしているが、不眠症はその中でも意外と難しいと感じている。最近3年間の著効例21例中、私が最も頻用していたのが11例のツムラ酸棗仁湯であった。ちなみに加味帰脾湯の著効例は3例であった。選択した方剤にサフランを追加すると更に効く例がある。